お寺のブログ

究極の念仏

なむあみだぶつ阿弥陀仏に帰依し、仏の計らいを仰ぎ、その救いを喜ぶ・・

なむあみだぶつ 阿弥陀仏に帰依いたします。無限の生命と無限の光に帰依いたします・・

無量の生命、光である阿弥陀仏に南無する(帰依、帰命する、帰る)という意味です。

仏法で言うところの「生命(いのち)」
これは生き通しの命、この宇宙自然のことを言います。
始めも終わりもない、生まれも死にもしない永遠なるもの・・
それは時間や空間も遙かに超えて、ただただ此処に在り続けるものであり、他の宗教や哲学では存在、神とも表現されるものです。

そして、この「永遠なるもの」と只今ここにいる「自分(自我)」は一体のものであり、一度たりとも分かたれたことはありません。
私たちは、錯覚、思い込みのために宇宙自然(阿弥陀)とは「分かたれたもの」という幻想の世界に生きています。

宇宙の意識、パワー、エネルギー等々、無量なる光が正にこの肉体や精神を創造し、維持運営しています。
人知科学では及ばない智慧の下、数知れない部品からなる微細なシステムが不可思議に動いています。

あまりの精巧さ故か、あまりに途轍もない、想像を絶する最高のシステム故か、または宇宙存在の必然故か・・
本来「分かたれたもの」ではなかった自分(システム)が、いつしか錯覚、誤解の世界(夢想世界)に入り、ここにいる自分というものは、宇宙自然とは分かたれたものという認識で生き始めてしまった・・これが私達が認識している「自分」です。

この幻想、錯覚の夢世界から目覚めて本来の「吾」に帰ること・・
これが仏教に限らず多くの宗教が語る、究極の目的です。

まさに”目覚める”ということ・・永い眠りから覚めて、本当の「自分」を再認識すること・・。

嗚呼、自分は宇宙全体と一体のものであった。
言い換えれば「阿弥陀仏そのもの」であった・・!
生まれもせず、死にもせず・・永遠を喜び遊ぶ仏そのものであった・・!

外側のどこか遠いところに御座しますと思って手を合わせていた阿弥陀仏・・

目覚めてみれば、ひとたび目覚めてみれば・・
只今此処に在る「私」が阿弥陀(無量光、無量寿)であった!!

なむあみだぶつ なむあみだぶつ 
ここに至った時、南無する「吾、私」と阿弥陀仏が本当の意味で一体となります。
ここに至った時、得も言われぬ妙なる歓喜が湧き起こります。

なむあみだぶつ なむあみだぶつ
「信頼が起こる」ということ、それは・・吾は正に仏と共に在る・・
というより、もっと真実に近く表現すれば、吾、正に仏なりという究極の真理を得て、揺らぎ無い信頼が起こるということです。

単に「信じる」ということではなく、「私は阿弥陀」であるという真実の事柄を理解する。
正にこの時、信頼が起こります・・!
私たちが生活するにおいて疑うことなく空気を吸い、そして吐き出すというような種類の信頼が・・!

正にこれが「目覚め」であり「さとり」です。
究極の信頼・・吾仏なりという、究極の信頼・・
これこそ南無阿弥陀仏の真髄です。

最初のステップは、信じること(疑いを内包するのが信じること)から始まるでしょう。
迷いのただ中にある私たちは、そうせざるを得ないでしょう。

しかし、仏法を求める気持ちが湧いてきたのなら・・
本当の自分を知りたいと心底願うようになったとしたら・・
吾が心の奥底に御座します阿弥陀仏がそのミチの全てを計らってくれます!

本当にミチを求め歩み始めたら・・
阿弥陀仏が手を取って案内してくれます。

目の前に様々な形をとって、目の前に色々な現象を表し、または指し示して、暗がりのミチを案内してくれます。
素直に心を落ち着けて、雑念を脇に置いて、少しの忍耐を持って念仏を口ずさみ続けるのなら・・。

あなたの意識の深いところで輝いている阿弥陀仏は、その歩みのすべてを助けてくれるでしょう!

この私を拝みながら、目覚めを願いながら・・!
拝んでいた阿弥陀仏は、正に今・・「私」を拝んでいる・・!

その時まさに、他力の心を識るでしょう!

そして、ミチの終わるとき・・
嗚呼・・吾は仏なり、吾は阿弥陀仏なり・・!
無上の歓喜がそこにあるでしょう!!   

合掌

○頌讃(浄土真宗作法より)〜 仏舞う時


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